第9章 当事音からの声
「ドン・キホーテに出会えた!」
事の起こりは1996年10月、もっと逆上れば1981年に小さな障害者の作業所、筑摩工芸研究所が始まったことからなのだが、96年にそれまでの経験を生かしてCIL「自立支援センターちくま」を立ち上げたことに始まる。さまざまな資料のなかでひときわ目を引いたのが「自立生活センターの誕生−ヒューマンケア協会の10年と八王子の当事者運動』である。そのなかにほんのちょっとだけ触れられていたのがジョイ・プロジェクトのこと。それは、私が十数年前から空想し、でも不可能ではないと思っていた夢の車そのものだった。それが97年の1月。早速いろいろ電話して、ジョイ・プロジェクトにたどり着いた私は、3月28日には船の科学館にいた。あまりの人の多さに、どの人が渡邊さんなのかもわからず、ただただ車を見て「これだよ!私が思っていたのは!」とコーフンしていたのだ。
電動車いすで一人で外出し始めた15年程前、免許を取りたいと強烈に思っていた。友人の車に乗せてもらって、障害者が宿泊して教習を受けることのできる埼玉県の施設を訪れた私は、そんなところでまで「それだけ手も足も動かなければ運転は無理ですね」と言われて「クソッ」と思った。ところがそこに、試験的にというよりも“ちょっと遊んでみた”程度の、ジョイ・バンのおもちゃみたいな車があった。不安定だし陸運局の許可も下りないと言われたが、本気で作れば絶対使えると確信した。しかし、ドン・キホーテでなかった私は、そのままあきらめた形で15年が過ぎ、渡邊さんと出会ったのだ。
「障害当事者が自ら動け!」「責任を持つ快感を知れ!」渡邊さんの一言一言にうなずき、叱嗜激励されているような気がした。何よりも渡邊さんの、障害者臭くない普通の人、当たり前の人というのがすごく好き。
船の科学館から帰った私は、早速、松本へのキャラバン招致を企画、その年の10月5日開催と決まった。“ちくま”は障害者福祉という枠を超えて、市民活動をしているさまざまな人との出会いを大切に紡いでいくというのを一番大切にしてきたから、広い層にネットワークを持っている。その人々に実行委員になってもらい、日頃福祉に協力的な信州ジャスコ南松本店さんに会場をお貸しいただいて、ビッグイベントに向けて過酷(?)な準備が始まった。大変だったけど楽しかった。結果は全国一というくらいの盛り上がりで大成功だったと思っている。当日もそう思ったのだが、98年3月11日、ジョイ・プロジェクトを追ったテレビ東京の『ドキュメンタリー人間劇場」『希望の馬車に乗って〜愛しのドン・キホーテ〜』を見てその感を強くした。
当日、私は現場はそれぞれの担当に任せて、あいさつ回りなど、けっこうフラフラ遊んでいたので、どんな人がどんな顔をしてジョイ・バンに出会っていたかは細部まで見ていなかった。映像を見るとあんな人もこんな人も、なんていい顔して運転席にいるんだ!みんな夢に出会っている!と、嬉しくなってしまった。
ドン・キホーテに「ジョイ・バンを使って免許取得第一号になってみないか」と言われたが、CILを長期に空けるわけにも行かず断ってしまった私は、自分自身のこととしてジョイ・バンを追いつつ、一方で、介助者による運転が必要な人のための「移動サービス市民活動全国ネットワーク」(98年3月15日発足)に深く関わることとなった。
どちらにしても共通して言えることは、ジョイ・バンや移動サービスが最終目的ではない。これをきっかけとして、障害者も当たり前に暮らせる社会を提案し、実現していくことなのだ。
そして「ドキュメンタリー人間劇場」のなかでインタビューされていた友人、「世と車いすセンター」の水谷克博くんの言葉を、私も多くの人に贈りたい。“障害者の一番のバリアーは社会ではなく、自分と家族です”
長野県松本市
自立支援センターちくま所長
移動サービス市民活動全国ネットワーク代表
大下京子
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